菅原道真――怨霊から学問の神へ転じた理由

学問の神として広く信仰される菅原道真(すがわらのみちざね)。しかし、かつては貴族たちを震え上がらせる「怨霊」として恐れられていた。彼がどのようにして学問の神として祀られるようになったのか、その歴史を振り返る。

栄達と失脚

道真は中級貴族の学者の家系に生まれ、学識に優れた才能を持っていた。宇多天皇に重用され、公卿にまで昇進。その後、宇多天皇が醍醐天皇に譲位する際、「藤原時平と道真の助言を受けて政治を行うように」と言い残した。

しかし、この急速な出世が貴族たちの反感を買い、ライバルである藤原時平は「道真が皇太子の廃位を画策している」と讒言。これを信じた醍醐天皇は、道真を九州の太宰府に左遷した。道真は無念のうちに2年後に亡くなった。

怨霊としての恐怖

道真の死後、朝廷では異変が相次ぐ。903年の死去から5年後、道真の弟子でありながら彼の失脚に加担した藤原菅根が落雷により死亡。翌年には藤原時平が39歳で急死。さらに、天候不順や疫病が続き、宮中では「道真の祟り」と恐れられるようになった。

923年、醍醐天皇の皇太子・保明親王が21歳の若さで死去。彼は時平の妹の子であり、わずか2歳で皇太子となったものの即位することなく亡くなった。これを受け、醍醐天皇は道真の名誉を回復し、彼に正二位を追贈。しかし、新たに皇太子となった保明の子・慶頼王も5歳で夭折。醍醐天皇は深く落胆した。

930年には、宮中の清涼殿に雷が落ち、大納言の藤原清貫と右中弁の平希世が死亡。この出来事に衝撃を受けた醍醐天皇は間もなく崩御した。この一連の不幸は、道真の怨霊の仕業とされ、次第にその霊を鎮めるための神事が行われるようになった。

学問の神へと変化

道真の祟りを恐れた朝廷は、942年、道真の霊が夢枕に立ち、「自分を祀るように」と告げたとされる多治比文子(たじひのあやこ)の訴えを受け入れ、北野天満宮を創建。その後、平将門の乱や藤原純友の乱などの動乱が続く中、貴族たちはますます道真の霊を鎮めることを重要視した。

また、道真が生前に優れた学者であったことから、次第に彼の神格化が進み、鎌倉時代や室町時代には文化的な行事の場として北野天満宮が活用されるようになった。そして、人々は道真を「学問の神」として信仰するようになり、現在に至る。

現在、日本全国には菅原道真を祀る天満宮が約1万2000社あり、受験生をはじめ、多くの人々が参拝している。元は怨霊として恐れられた道真は、人々の信仰によって「学問の神」へと転じたのである。